ページ番号1001940 更新日 令和6年11月18日
無形文化財
昭和42年3月指定
所在地 本町2-2-1
保持団体 村山織物協同組合
狭山丘陵南麓の村山地域は江戸時代より木綿紺絣の産地として知られていましたが、明治時代から大正時代にかけて木綿絣の研究開発が進められ生産量が増加しました。大正8年(1919)頃には板締染色の技術が群馬県伊勢崎から導入され、絹織物が多く作られました。
村山大島は先染した絹糸を手織りする紬絣で、多くは普段着として着用されました。製作の工程は大変複雑で、経糸、緯糸のほか地糸、絣糸ごとに別々の染色、糸巻きの工程があります。最後に柄を合わせ、さらに綜絖(そうこう)通し、筬(おさ)通しをして高機で織っていきます。板締染色と手織りが村山大島紬の特色です。
無形民俗文化財
平成3年3月指定
所在地 三ツ木3-22-3
保持団体 宿薬師念仏鉦はり保存会
双盤念仏は平安時代以来の引声念仏の流れをくみ、鉦(4個)と太鼓(1張)を打ち鳴らしながら、これに合わせて独特の節をつけて念仏を唱える仏教行事です。武蔵村山の双盤念仏は薬師念仏鉦はりといい、宿薬師堂で行われます。太鼓の胴の内側に記されていた墨書により文化11年(1814)が鉦はりの起源と推定されています。昭和43年までは青年団の構成員によって受け継がれてきましたが、現在では宿薬師念仏鉦はり保存会が保存伝承に努めています。
薬師念仏鉦はりは、毎年10月8・12・22日に行われています。
有形文化財
昭和51年4月指定
所在地 中藤1-37-1
所有者 真福寺
この梵鐘は、鐘銘により寛永15年(1638)、真福寺第9世頼栄法師の代に鍛冶長瀬理右衛門久次によって製作されたものであることがわかります。頂上に宝珠を乗せ、乳の数は1区5段5列で、池の間には寺の由緒が刻まれています。下帯には波紋を鋳出し、駒の爪は江戸時代特有の出かたをしています。
現在は山門内にかけられており、高さは138センチメートル、口径は75センチメートルあります。
有形文化財
昭和51年4月指定
所在地 中藤1-37-1
所有者 真福寺
格天井花鳥画は、天保10年(1839)に石川文松という絵師によって、真福寺本堂外陣三間の格天井に描かれました。一般に百花百鳥といわれていますが、実際に描かれているのは、牡丹(ぼたん)などの植物が100枚のほか、実在する鳥類が64枚、色彩や構図を変えた想像上の鳥である鳳凰が35枚、そして中央部分に龍の絵が1枚配置され、合計で200枚描かれています。
1枚の大きさは直径45センチメートルで、杉板に胡粉をほどこした上に絵の具で描かれています。天井の南西隅の天竺牡丹(ダリア)と思われる絵には落款が残されています。
注:写真は複製画を撮影したものです。
有形文化財(平成15年6月に種別変更)
昭和51年4月指定(平成15年6月に「明治4年分」を追加指定)
所在地 本町5-21-1
所有者 武蔵村山市
指田日記は、武蔵国多摩郡中藤村の陰陽師で神職でもあった指田摂津正藤詮が天保5年(1834)から明治4年(1871)までの38年間書きつづった日記です。日記は16冊に分かれており、現在の武蔵村山市内及び周辺地域の世情や産業、風俗、慣習などを知ることができる貴重な資料です。天保5年から明治3年までの15冊は大半が楷書で書かれており、中でも黒船来航や安政の大地震の情報が極めて正確であることから、後年、藤詮の指示により子息の鴻斎が抜粋、清書したものと推測されていました。それを裏付けるように、近年発見されて追加指定した「明治四年辛未日記」は、前15冊とは違い横帳の体裁に草書体で書かれており、これこそ藤詮が亡くなる直前まで書き記した自筆の日記であることがわかりました。
有形民俗文化財
昭和51年4月指定
所在地 三ツ木3-67-2
所有者 慈眼寺
細田山にある2基の庚申塔は、長い年月生い茂る樹下にあったために風化せずに造立当時の場所に状態よく保存されています。笠付角柱状の庚申塔は元禄6年(1693)の造立で、正面に青面金剛が配され、左右裏面には「見ざる 言わざる 聞かざる」の三猿が刻まれています。高さ72センチメートル、幅22センチメートルです。もう一方の駒形の庚申塔は、正面に庚申供養の文字と日月瑞雲を刻み、さらに三猿を大きく浮き彫りにしたもので、享保元年(1716)に造立されたものです。高さ61センチメートル、幅28センチメートルです。
有形民俗文化財
昭和51年4月指定
所在地 神明3-12-2
所有者 個人
神明ヶ谷戸大日堂の庚申塔は、江戸時代中期の宝暦9年(1759)に造立されました。駒形で高さ92センチメートル、幅37センチメートルです。正面上部に日月、中央に六手の青面金剛、下部に三猿が彫り込まれています。この庚申塔は、長い年月風雨にさらされ風化が著しいですが、青面金剛の規範にのっとった典型的な形式をしています。
史跡
昭和51年4月指定
所在地 榎3-5-1ほか
所有者 武蔵村山市
三本榎は、西から乙幡榎、加藤榎、奥住榎と呼ばれています。植えられた由来については樹齢とともにはっきりしていませんが、その昔、腕自慢の若武者三人が遠矢の競争をした際、落下した場所にそれぞれの姓を付けた榎を植えたとの伝説があります。
三本榎の南側を通る道は引又街道(別名市街道)と呼ばれ、江戸時代に新河岸川の舟運の中継地として栄えた引又河岸(現在の志木市)と青梅方面を結ぶ物資の輸送路でした。その街道の脇に塚を作って植えられたのが三本榎です。奥住榎は大正時代に植え替えられたと伝えられ、加藤榎は平成21年に二代目となりました。乙幡榎は令和元年に幹本体部が枯死の可能性が高いと判断されたため翌年に伐採を行い、現在は残った根から後継樹を育成しています。
旧跡
昭和51年4月指定
所在地 本町3-40-1
所有者 長円寺
江戸時代の武蔵村山市域には、中藤村、横田村、三ツ木村、岸村の4か村がありました。これらの村々の多くは幕府の直轄地である「御料」でしたが、三ツ木村だけは明治を迎えるまで御料と旗本の領地である「私領」とが混在していました。三ツ木村を治めていた旗本は江戸時代初期には藁科氏と大河内氏でしたが、その後大河内氏だけとなり、「地頭」と呼ばれていました。
長円寺境内には大河内氏の三代忠次と五代忠政の墓石があります。忠次の墓石は高さ210センチメートルで寛文2年(1662)の銘が見え、忠政の墓石は高さ103センチメートルで宝暦3年(1753)の銘が刻まれています。また、長円寺には大河内氏初代の勘解由左衛門忠正から八代忠春までの位牌も残っています。なお、江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』の大河内氏三代忠次の項に「(寛文)2年12月26日死す。年67。法名了無。武蔵国多摩郡中藤村の長円寺に葬る。」と記されています。
無形民俗文化財
昭和51年4月指定
所在地 三ツ木5-12-6
保存団体 三ツ木天王様祇園ばやし保存会
三ツ木天王様祇園ばやしは、十二所神社境内にある八坂神社の祭礼の中心行事であり、優美な音曲は地区の住民に親しまれています。祇園ばやしの鳴物は七孔の篠笛と大太鼓であり、その曲は京都に伝わる祇園ばやしであると伝えられています。以前は毎年7月15日に行われていましたが、現在ではその直前の日曜日の八坂神社の祭礼時に行われ、五穀豊穣、悪疫退散の祈願のため三ツ木地区を巡行する御輿に同行し、大太鼓に合わせて七節の曲を繰返し吹きながら祭礼を盛り上げています。祇園ばやしは、明治25年(1892)頃に峰地区の比留間幸次郎氏が浅草の住人金村という人物を招き、長期間寝食を共にしながら伝授されたと伝えられています。
無形民俗文化財
昭和51年4月指定
所在地 中央3-43-1
保存団体 萩赤重松囃子保存会
重松囃子は、江戸時代末期から明治時代にかけて所沢に住んでいた古谷重松氏が江戸の葛西囃子などを元に独自の節回しと曲目を考案し、近郷近住に広めたといわれています。使用する鳴物は七孔の篠笛、大太鼓1個、締太鼓2個、当り鉦1個に拍子木が加わります。市内の萩ノ尾・赤堀地区に伝わる重松囃子は明治時代初期に農家の蚕室を稽古場にして、古谷重松が自ら村の有志に指導したといわれています。入間市の久保稲荷神社に奉納されている明治7年(1874)2月の「古谷重松太鼓連中奉納絵馬」には重松が指導した囃子連の短冊が描かれており、その中に「はきのふ」と記された短冊があることから、重松が明治7年以前に萩ノ尾地区で囃子の指導をしていたことがわかりました。
その後、後継者不足から昭和初期に入り囃子は途絶えてしまいましたが、昭和29年(1954)に地元有志が復活させ、平成4年からは昭和40年代に子供囃子を経験した方々が保存会に加わり芸能の伝承が図られています。
無形民俗文化財
昭和51年4月指定
所在地 本町3-40-1
保存団体 横中馬獅子舞保存会
横中馬獅子舞は、横田、中村、馬場の3地区の人々によって五穀豊穣、無病息災、悪疫退散の祈願を目的に長円寺及び各地区の氏神様に奉納されています。現在は毎年4月29日に行われています。
横中馬獅子舞の起源ははっきりしていませんが、獅子舞の時に使う太鼓の胴に「宝暦2年(1752)6月申日御江戸浅草新町高嶋屋喜左衛門作」と記されていたことから、その頃までさかのぼると考えられています。また、『指田日記』の天保6年(1835)7月9日の項に見える「中村獅子アリ」が最古の記録で、さらに天保10年(1839)8月28日の項には「太神宮社地ニ於テ獅子舞アリ」とあり、太神宮(御伊勢の森神明社)の祭礼に獅子舞が奉納されていた様子を知ることができます。
有形民俗文化財
平成7年12月指定
所在地 神明3-12-2
所有者 個人
この大日如来像は、宝冠をかぶる金剛界大日如来であり、袈裟を肩掛けした如来態(てい)です。丸彫りで顔や胸、衣などにふくらみが表現されており、仕上げに線状の磨き痕が見られます。保存状態も良く、現在は大日堂内に安置されています。総高は126センチメートルあり、台座には神明ヶ谷戸地区の24名の名前と日待供養の造立趣旨が刻まれており、享保8年(1723)に造立されたことがわかります。
有形民俗文化財
平成7年12月指定
所在地 神明2-30
所有者 真福寺
石造の如意輪観音像は市内にも数多く存在しますが、慶安5年(1652)の年号があることから江戸時代前期に属する市内ではもちろん近隣でも古い石仏の一つです。銘文には念仏供養のための造立趣旨のほか、丑女敬白と刻まれています。日付の「18日」は観音様の縁日です。
一般に如意輪観音像は、木造では一面六臂(腕)のものが多く、石仏では一面ニ臂に簡略化され、しかも小型のものが多く見られます。この像は石仏では非常に珍しい大型の一面六臂像であり、総高は154センチメートルあります。
有形民俗文化財
平成7年12月指定
所在地 中央2-87-2
所有者 個人
この馬頭観世音菩薩は、寛政5年(1793)に馬の供養のため原山地区の講中により造立されたものです。総高は180センチメートルあり、正面上部に一面ニ臂(腕)の馬頭観世音菩薩立像が浮き彫りされ、像容は宝冠には馬の頭で、蓮華座も美しく描かれており、衣の裾が舞い上がる美しい姿で表現されています。
有形文化財
平成7年12月指定
所在地 中央3-7-5
所有者 萩ノ尾薬師堂
この宝篋印塔は、南北朝期の北朝年号である延文元年(1356)に造立された本市では数少ない中世資料の一つです。もともとは基礎、塔身、笠、相輪の4つの部分から成っていましたが、現在では基礎と笠の部分を残すのみです。しかし、基礎部分の二重の枠(格座間)などに延文期関東型の宝篋印塔の特徴をよく表しており、、銘文には「歿故了意禅尼」という被葬者名と死去年月日が見えます。
有形民俗文化財
平成7年12月指定
所在地 岸3-37-7
所有者 禅昌寺
この庚申塔は、寛文10年(1670)の銘が見える市内最古の庚申塔です。現在は歴史民俗資料館で保管していますが、元は岸地区の猿久保尾根に建てられていました。
総高は64センチメートルで板碑型をしており、正面上部に種子らしき文字が確認でき、正面下部にはすべて(向かって)左を向く三猿が刻まれています。三猿が刻まれている庚申塔は数多く見られますが、このようにすべて同じ方向を向いているものは大変珍しいといえます。二つに折損しているうえに風化摩滅が著しいですが、正面右端に「寛文十年」、左端に「九月十日」と刻まれているのがかろうじて確認できます。
有形文化財
平成13年12月指定
所在地 本町2-2-1
所有者 村山織物協同組合
武蔵村山市周辺の地域は、大正時代から村山大島紬の産地として広く知られ、機屋(はたや)や絣板製造業者が数多く営業していた地域です。これらの織物業者等が同業者組合を組織し製品の品質管理、販路の確保に努めてきました。この組合事務所は、当地域の織物産業の全盛期であった昭和3年(1928)に建てられ、現在も地場産業の中心的存在として機能しています。
館内には織物資料館があり、月曜日から金曜日の午前10時から4時までの間に見学することができます。
無形民俗文化財
平成13年12月指定
所在地 中藤3-43-1
保存団体 仙元神社富士講谷津講社
関連資料所有者 仙元神社富士講谷津講社ほか4名
市内の中藤谷津地区に富士講を伝えたのは、富士講中興の祖食行身禄(じきぎょうみろく)から五代目にあたる先達星行(せんだつせいぎょう)であるといわれています。このときに星行から直接教えを受けたのが中藤村の山行星命(さんぎょうせいめい・俗名藤七)と呼ばれる人物でした。
谷津地区に残る富士講文書の中には星行の署名が残されているものとして、寛政元年(1789)のお伝え、文化3年(1806)のお身抜、文化10年(1813)の政事之巻の3つがあります。また、これらの古文書から谷津富士講が始まったのは寛政から文政期にかけてであることがわかりました。
谷津富士講の主な行事として、初読み(1月1日)、本祭り(5月5日)、星祭り(冬至の日)などがあります。
有形文化財
平成15年6月指定
所在地 本町5-21-1
所有者 武蔵村山市
この土器は、昭和39年(1964)頃から開始された市立第三小学校の校舎改修工事の際に出土した約4500年前(縄文時代中期)の縄文土器把手部の破片です。
この土器片には、左目が×印でつぶされた人の顔がかたどられてある大変珍しいものです。
歴史民俗資料館で常設展示しています。
有形文化財
平成15年6月指定
所在地 本町5-21-1
所有者 武蔵村山市
この大甕は、明治時代初期に当時の中藤村字屋敷山(現在の中藤1丁目)から出土したと伝えられています。形態や胎土などの特徴から室町時代(15世紀前半)に現在の愛知県常滑市付近で作られたものであることがわかりました。
しかし、このような大きな甕が何に使われたのか、また、常滑からどのような輸送ルートで運ばれたかなどははっきりとわかっていませんが、本市の数少ない中世資料というだけでなく、中世の大甕が完全な形で残っている極めて少ない例です。
口径53.6センチメートル、高さ73.6センチメートル、肩部最大径84.6センチメートル、底径は17.4センチメートルです。歴史民俗資料館で常設展示しています。
旧跡
平成19年7月指定
東航正門跡石碑建立地
所在地 大南3-138所有者 武蔵村山市
揺籃の地石碑建立地
所在地 大南3-29-6所有者 禅昌寺
昭和12(1937)年10月村山村大字中藤字大南に東京陸軍航空学校が開設されました。日中戦争が始まり、日本全体が戦時色を強めていく時代の中で、あらためて航空機の重要性が注目され、航空兵の養成が求められました。その後、昭和18(1843)年3月には、東京陸軍少年飛行兵学校と名称が改められました。
現在、この学校の様子をとどめる明確な痕跡は現地になく、かつての正門跡に建てられた「東航正門跡」石碑と旧学校敷地内に建てられた「揺籃の地」石碑が跡地の存在を伝えるのみとなっています。
市内に軍事施設が存在した歴史的事実を後世に伝え、恒久の平和を祈るため、これらの石碑建立地を市旧跡に指定しました。
(写真は、東航正門跡石碑(左上)と揺籃の地石碑(左下))
有形文化財
平成27年7月指定
所在地 本町5-21-1
所有者 武蔵村山市
乙幡市郎右衛門は中藤村の名主の一人で、おおまかに上中藤(萩ノ尾・赤堀・中村・馬場地区)の家々からなる組を市郎右衛門組といい、乙幡家は代々市郎右衛門を名乗り、組の名主を世襲していました。
乙幡家に残る文書は総数9296点を数え、江戸時代の名主としての職務の過程で蓄積されたものが中心です。村の出来事、世相、風俗、寺社との関係、鷹場、千人同心、拝島大日堂、幕末の農兵、新選組、官軍御用といった豊富な内容の史料が残されています。
有形文化財
平成27年7月指定
所在地 本町5-21-1
所有者 武蔵村山市
内野佐兵衛は中藤村の名主の一人で、おおまかに内中藤(谷津・入り地区)の家々からなる組を佐兵衛組といい、内野家は代々組の名主を務めていました。
内野家に残る文書は総数1639点を数え、江戸時代の名主としての職務の過程で蓄積されたものが中心です。享保年間(1716〜1735)に中藤新田(国分寺市)、芋窪新田(立川市)、上谷保新田(国立市)の開発にかかわり、中藤新田と芋窪新田については天明6年(1786)7月まで名主を内野家が兼帯していた記録が残されています。
有形文化財
平成27年7月指定
所在地 本町5-21-1
所有者 武蔵村山市
渡辺源蔵は「谷津里正」と呼ばれた中藤村の名主の一人で、おおまかに谷津から原山地区の家々からなる組を源蔵組といいました。渡辺家は源蔵あるいは市郎左衛門と名乗り、文化7年(1810)に一年交代の年番制が採用されるまで代々組の名主を務めていました。
渡辺家に残る文書は総数1553点を数え、江戸時代の名主としての職務の過程で蓄積されたものが中心です。村政や村況、なかでも鷹場、農業、産業、寺社との関係、幕末の農兵に関する史料などが残されています。
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