ページ番号1001938 更新日 令和6年10月3日
武蔵村山市は武蔵野台地に島のように存在する狭山丘陵の南麓に位置し、市域には丘陵によって育まれた豊かな自然と人々の暮らしが織りなす歴史と文化があります。こうした地域の歴史や文化を伝えるかけがえのない貴重な財産である文化財を保護・保存することの大切さをより多くの人々に広める一貫として「むさしむらやま歴史散策コース」は設定されました。
当初の設定から約40年が経過し、道路状況等の変化などから既存の市北部地域の東と西のコースについて、それぞれ1コースだったものを、東を3コース、西を2コースに再編しました。また、新たに市南部地域に南東コースと南西コースの2コースを設定し、全7コースになりました。
各コースの詳細なルート図については、歴史民俗資料館本館、市政情報コーナー(市役所1階)で販売しています。
(令和3年3月発行、A4判、20ページ、200円)
東コースには全部で21のポイントがあります。
昭和56年に設定された当初は、延長約8キロメートル、徒歩で約5時間のコースでしたが、昨今の道路状況等の変化などから3つのコースに分割しました。
分割したコースのポイント順は順不同ですが、ポイント番号は変更していないので、当初のコースのように番号順で巡ることも可能です。
延長約3.4キロメートル、徒歩約50分
本町5-21-1
昭和56年11月3日開館。武蔵村山の「自然・歴史・民俗」についての常設展示をはじめ、季節ごとの展示や企画展などを開催しています。市指定有形文化財の「人面装飾付土器(把手部位破片)」と「中世常滑窯大甕」は常設展示を行っています。
本町5-11-1
創建年代不明ですが、『新編武蔵風土記稿』が発行された江戸時代には創建されていたと推測されます。境内には愛宕神社、旧横田村と旧中藤村(馬場地区)との境界に祀られていた諏訪神社・八幡神社・八坂神社が合祀されています。毎年、春には横田・中村・馬場地区と巡る横中馬獅子舞(市指定無形民俗文化財)が奉納されています。
本町4-34-1
横龍山吉祥院と号し、曹洞宗長圓寺の末寺です。寺伝では長圓寺三世竹同呑行和尚によって開山されたと伝えられていますが、『新編武蔵風土記稿』では寅貞祖源の開山と記載されています。本堂は明治32年(1899)に焼失し、明治36年(1903)に再建されました。狭山三十三観音霊場の二十二番札所となっています。江戸時代には境内に寺子屋が置かれ、明治6年(1873)に郷学校として吉祥学舎(のちの第一小学校)が設立されました。
本町4-33-1他
日吉神社から吉祥院の裏に広がる舌状の台地は吉祥山と呼ばれ、山全体から旧石器時代・縄文時代早期〜晩期・弥生時代後期・古墳時代中期〜後期・古代の遺構・遺物が発見されています。また縄文時代から平安時代にかけては、集落が営まれて、住居址及び狩りに用いる石器や食料の保存・調理等に用いられた土器など貴重な資料が発見されています。出土した遺物の一部は歴史民俗資料館に展示しています。
中央4-1
創建年代不明。別名「山王権現」「山王社」とも呼ばれ、神仏分離により「日枝(日吉)神社」となりました。元禄4年(1691)に埼玉県所沢市三ヶ島にある昌(照)明院より御神体を遷宮、文化9年(1812)に波多野文右衛門が社殿を奉納しました。境内には大口真神社・愛宕神社・八坂神社が合祀されています。八坂神社の祭礼日には重松囃子(市指定無形民俗文化財)が奉納されています。
中央5-25
大多羅法師という大男が天地開闢のときに大きな下駄を履いて、藤蔓で山を背負って歩き、その下駄の跡でくぼんだところが井戸になったという伝説があります。以前は常に水が湧き、四季を通じて水の増減がないことから村の貴重な用水になっていたといわれ、豊富に水が湧き出す様子から、別名「でびいしゃら井戸」とも呼ばれていました。
中藤2-27-1
入谷川上流にある上下ふたつからなる溜池です。江戸時代は中藤村の入り地区から鍛冶ヶ谷戸地区にかけての谷間に連なっていた田んぼの灌漑用の水として利用され、文政4年(1821)に描かれた村の景観絵図には「御嶽道溜井」と記されています。古くから地域の水田稲作農業の水源として水利史上重要な役割をもつ池でしたが、開発によって田んぼが埋め立てられ宅地となり、灌漑用水としての機能は失われています。
中藤2-43
番太池と同様に、江戸時代は中藤村の入り地区から鍛冶ヶ谷戸地区にかけての谷間に連なっていた田んぼの灌漑用の水として利用されていた溜池です。文政4年(1821)に描かれた村の景観絵図には「赤坂溜井」と記されています。
古くから地域の水田稲作農業の水源として水利史上重要な役割をもつ池でしたが、田んぼが埋め立てられたことにより灌漑用水としての機能は失われています。
中藤1-37-1
龍華山清浄光院眞福寺と号し、寺伝では和銅3年(710)に行基によって開山されたといいます。承久2年(1220)に落雷によって焼失した伽藍を、正応2年(1289)に瀧(龍)性法師が中興開山し、本堂は安永7年(1778)に再建されました。境内にある観音堂は、江戸時代前期の建立と伝えられ、もとは阿弥陀堂といわれています。江戸時代中期より奉納された百体観音像が安置され、狭山三十三観音霊場の二十番札所となっています。また、山門に収められた寛永15年(1638)に鋳造された梵鐘と、本堂三間の格天井に描かれた200枚の花鳥画はいずれも市の有形文化財に指定されています。【文化財保護のため指定文化財については閲覧できません】
延長約2.2キロメートル、徒歩約35分
中藤1-50-1
創建年代不明。もとは眞福寺境外社で、天保7年(1836)11月16日に焼失し、天保15年(1844)に再建されました。神仏分離により所在地である入り地区の人々に管理されるようになりました。境内には御嶽神社・八幡神社・稲荷神社・水天宮が合祀されています。
中藤3-23-1
創建年代不明。もとは眞福寺境外社で、神仏分離によって「熊野神社」となりました。社殿には『指田日記』の筆者である指田摂津正藤詮の筆による「熊野権現」の扁額が掛けられています。境内には愛宕神社・稲荷神社が合祀され、昭和50年(1975)頃に御嶽神社が勧請されました。
中藤5-86-1
創建年代不明。江戸時代には「牛頭天王社」と呼ばれ、神仏分離により「八坂神社」となりました。境内には御嶽神社(大口真神社)・稲荷神社が合祀されています。明治時代初期に記され、昭和14年(1939)に刊行された杉本林志著『狭山之栞』にも書かれている立皮桜という名木が植わっています。
中藤5-19-5
享保13年(1728)造立。中藤村の人々によって現世と来世とが安楽であることを願い造立されたものです。人々の信仰が厚く、次第に地域の交通安全や無病息災を願うようになりました。
神明2-86
創建年代不明。もとはお伊勢の森神明社の遥拝所であったものを神明ヶ谷戸の鎮守にしたといわれています。昭和45年(1970)の市制施行を記念して、翌年に社殿と境内を改修しました。境内には御嶽神社・稲荷神社が合祀されています。
神明3-12-2
宝暦9年(1759)造立。中藤神明ヶ谷戸村の庚申講によって造立されたもので、形状は駒型を呈し、正面上部に日月瑞雲、中央に青面金剛、下部に三猿を配し、右側面には「宝暦九己卯天九月吉日」、左側面には「武州多摩郡中藤神明箇谷村講中造立之」と文字が彫り込まれています。この庚申塔は江戸時代中期の典型的な形式をしており、昭和51年(1976)に市有形民俗文化財に指定されています。
延長約2.4キロメートル、徒歩約35分
本町1-1-1
武蔵村山市は、狭山丘陵の豊かな自然環境に抱かれたまちとして、昭和45年11月3日に市制を施行しました。以来、都心近郊の緑あふれる住宅都市として着実な発展を遂げています。
面積 15.32平方キロメートル
東経 139度23分24秒
北緯 35度45分05秒
海抜 120メートル
中央3-7-5
創建年代不明。天正18年(1590)に八王子城が落城の際、市域へ逃げ落ちた北条氏照の重臣石川土佐守の娘が自身の本尊(薬師如来)を堂宇に祀ったといわれています。昭和6年(1931)に青梅街道拡幅工事のため、東向きに建っていた本堂を北側へ移して南向きへと変え、その後、本堂東隣へ公会堂が増築されています。
中央3-73-3
江戸時代初期、前島十左衛門(地頭)の娘には手指が6本あり、身の不幸を悲しみ世を儚んだ娘は命を絶ってしまったので、その供養のために村人が建てたと伝えられています。いまでは子育地蔵として信仰されています。
中央3-63-3
享保4年(1719)造立。伝承では、江戸時代中期に土地の祭りで騒ぎがあり、人があやめられ、その供養として原山村の人々によって造立されたといいます。もとは原山巡査駐在所(中央2-38付近)があった辻沿いに建てられていたものが、昭和14年(1939)頃に中央3-56付近へ移され、令和5年(2023)に現在の場所へ移されました。
中央2-87-2
庚申塔は寛保元年(1741)造立。形状は笠付角柱型を呈し、正面中央に合掌六手の青面金剛、右側面には「寛保元辛酉年」、左側面には「十一月吉日」の文字が彫り込まれており、もとは北向きに建てられていました。
馬頭観音は寛政5年(1793)造立。形状は平柱型を呈し、頂上は皿型です。正面上部には一面二臂(二腕)の馬頭観世音菩薩立像が浮き彫りされ、中央に「(馬頭)観世音菩薩」、右側面には「寛政五年癸丑十一月吉日」、左側面には「武州たま郡原山村講中」「願主 〔 〕左エ門」の文字が彫り込まれています。千部塚の野道と引又街道(市街道)の辻から移されたもので、平成7年(1995)に市有形民俗文化財に指定されています。
中央2-125-1
旧中藤村・横田村の総鎮守で、江戸時代には「大神宮」とも呼ばれました。明和年間(1764〜1771)に焼失したため由緒は定かでなく、現在の社殿は文政6年(1823)に相模国大山の工匠明王太郎に托して再建され、昭和55年(1980)に改築されました。神社が祀られている場所は「御伊勢地」と呼ばれ、神社前を引又街道(市街道)が通っています。
市内を東西に通る引又街道は「市街道」とも呼ばれ、秋津(東村山市)・清戸(清瀬市)を経由して新河岸川(埼玉県志木市の引又河岸)へ通じる道です。新河岸川は荒川水系の支流で川越(埼玉県川越市)と江戸を結ぶ舟運路であり、船問屋の文書に武蔵村山市域内の人名や商品名の記録が残されていることから産業上重要な街道でした。
学園1-2-3他
三本榎は引又街道沿いに植えられ、東から奥住榎・加藤榎・乙幡榎と呼ばれ、かつては街道の一里塚の役割を果たし、また、旅人の憩いの場であったとされ、市の史跡に指定されています。伝承では腕自慢の三人の若武者が赤堀の山際から遠矢の競争をして、放った矢が落ちた場所にそれぞれ自分の姓をつけた榎を植えたといわれています。奥住榎は大正時代に二代目に植え替えられたと伝えられ、加藤榎は道路拡張に伴い伐採、平成21年(2009)に二代目を植樹され、乙幡榎は令和2年(2020)の強風により幹が折れたため残りの幹を伐採し、現在は残った根から後継樹を育成しています。
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