ひと


ページ番号1001942  更新日 令和6年9月13日


 わたしたちの武蔵村山は、今から1万数千年以上前から人が住みはじめ、狭山丘陵の豊かな自然とその南に広がる武蔵野台地との深いかかわりの中で、先人たちは歴史的にも文化的にも貴重な財産を残してくれました。このコーナーでは「ひと(人)」にスポットをあてて、「武蔵村山のあゆみ」について見ていきます。

武蔵村山の偉人伝 その1

『指田日記』の筆者 指田摂津正藤詮(さしだせっつのかみふじあきら)

 指田摂津正藤詮は、江戸時代の寛政7年(1795)、武蔵国多摩郡中藤村(現在の武蔵村山市)で指田福明(さしだよしあきら)の子として生まれました。指田家は代々中藤村原山に住む農家でしたが、藤詮の父福明は原山神明宮の神職を務める一方で、占いや祈祷を行う陰陽師(おんみょうじ)としても活動していました。福明は藤詮が14歳の時に亡くなったため、藤詮は一家を支えるべく、父と同じく陰陽師として活動をしました。その藤詮が、天保5年(1834)から明治4年(1871)まで書きつづった日記が『指田日記』です。日記には、陰陽道や神職としての活動内容だけでなく、中藤村で起きたさまざまな事件や年中行事、冠婚葬祭、天気などについて書かれており、江戸時代末期から明治時代初期にかけての武蔵村山の様子や生活文化について知ることができます。なお、『指田日記』は市の有形文化財に指定されています。

[画像]『指田日記』(68.7KB)

『指田日記』(武蔵村山市蔵)

武蔵村山の偉人伝 その2

村人に慕われた「赤ひげ先生」 指田鴻斎(さしだこうさい)

 指田鴻斎は、江戸時代末期の天保10年(1839)に指田藤詮の子として生まれ、幼名は八三郎、八太郎、保十郎といいました。『指田日記』には、鴻斎が父藤詮の陰陽師、神職の仕事を手伝っていた様子が記されています。鴻斎はその後医業を志し、文久3年(1863)から慶応2年(1866)までの間、江戸駿河台の医師木村周庵に弟子入りして漢方内治学を学びました。さらに慶応3年(1867)から明治元年(1868)まで、東京牛天神下(現在の文京区内)の伊東南洋に弟子入りして西洋内科学と眼科を学びました。そして明治2年(1869)、中藤村に戻り医師として開業しました。内科、眼科を主としていましたが、漢方や西洋折衷の診療を行っていました。当時は眼科医がとても少なく、多摩一円から埼玉南部までの診療圏をもっていました。また、鴻斎は疱瘡予防のための種痘にも熱意を持っていたようで、『指田日記』にも文久元年(1861)頃からたびたび保十郎(鴻斎)の種痘に関する記事が記されています。鴻斎は明治になってからも種痘を続け、村人に無償で予防接種を行うなど天然痘の予防の功績が称えられ北多摩郡私立衛生會から感謝状も受けています。鴻斎は大正4年(1915)に77歳で亡くなるまで診療を続け、当時の中藤村をはじめ近隣地域の医療に大きく貢献しました。

[画像]指田鴻斎の肖像(34.8KB) [画像]明治30年の種痘感謝状(35.1KB)

指田鴻斎の肖像(個人蔵)と明治30年の種痘感謝状(武蔵村山市蔵)

[画像]鴻斎が使用した注射器具(13.2KB)

鴻斎が使用した注射器具(武蔵村山市蔵)


このページには添付ファイル、または画像がありますが、携帯端末ではご覧いただけません。
添付ファイル、または画像をご覧いただく場合は、パソコン版をご覧ください。


教育委員会教育部文化振興課資料館係
電話番号:042-560-6620
ファクス番号:042-569-2762


[0] トップページ [1] 戻る

Copyright (C) Musashimurayama City. All rights reserved.