歴史散策コース(南西コース)


ページ番号1012572  更新日 令和4年1月31日


 武蔵村山市は武蔵野台地に島のように存在する狭山丘陵の南麓に位置し、市域には丘陵によって育まれた豊かな自然と人々の暮らしが織りなす歴史と文化があります。こうした地域の歴史や文化を伝えるかけがえのない貴重な財産である文化財を保護・保存することの大切さをより多くの人々に広める一貫として「むさしむらやま歴史散策コース」は設定されました。
 当初の設定から約40年が経過し、道路状況等の変化などから既存の市北部地域の東と西のコースについて、それぞれ1コースだったものを、東を3コース、西を2コースに再編しました。また、新たに市南部地域に南東コースと南西コースの2コースを設定し、全7コースになりました。

 各コースの詳細なルート図については、歴史民俗資料館本館、市政情報コーナー(市役所1階)で販売しています。
(令和3年3月発行、A4判、20ページ、200円)

南西コース(8ポイント)の概要

市南西部を巡るこのコースは、延長約3.4キロメートル、徒歩で約50分のコースです。
8ポイントの順路は以下の通りです。 

南西(1)岸・貝塚の馬頭観音【きし・かいづかのばとうかんのん】

[画像]馬頭観音(72.2KB)

中原1-17

明治4年(1871)造立。形状は平柱状で頂部が平角型を呈し、正面に「馬頭観世音 當村中」、右側面に「明治四辛未年四月吉日 右青梅道」、左側面に「武州多摩郡岸村 左羽村道」と刻まれています。この馬頭観音は道標を兼ねており、もとは江戸街道沿い(中原4-12付近)に南東向きで建てられていたものを、昭和初期に現在地へ移したと伝えられています。

南西(2)軽便鉄道跡【けいべんてつどうあと】

[画像]軽便鉄道跡(68.2KB)

軽便鉄道「(仮称)羽村・山口線」は、山口貯水池堰堤の建設資材を運搬するための工事専用線路で、昭和7年(1932)頃まで利用されていました。この路線は、羽村取水堰付近の砂利採取場から貯水池までの約12.4キロメートル間に敷設され、その線路幅は2フィート(約610ミリメートル)と狭く、ガソリン機関車や当時最新鋭のディーゼル機関車が資材を積んだ鉄製トロッコを牽引していました。現在は、市域に残る軌道跡の一部を野山北公園自転車道として利用しています。

南西(3)残堀砕石場跡地【ざんぼりさいせきじょうあとち】

[画像]採石場跡地(48.8KB)

三ツ藤3-21他

残堀砕石場は山口貯水池堰堤を建設するため、軽便鉄道「(仮称)羽村・山口線」沿いに設置され、砂利採取場から運ばれた石を用途ごとの大きさ(砂利・砂・玉石)に破砕し、振り分けていた施設です。軽便鉄道引込線を通って桟橋上へあがった機関車は、牽引しているトロッコ(通称:ナベトロ)に積まれた資材を降ろし、その資材は桟橋中段にある破砕機で破砕してふるい分けられ、桟橋下に待機する別の機関車に牽引されたトロッコへ積みこまれて運ばれていました。

南西(4)残堀川【ざんぼりがわ】

[画像]残堀川(40.0KB)

残堀川の水源は、もともと狭山丘陵南西部にありましたが、江戸時代前期に玉川上水の助水として利用するため狭山池(瑞穂町)と残堀川をつなぐ流路が人為的に開削され、現在のような狭山池を水源とする姿になりました。
昭和36年(1961)、プリンス自動車工業(日産自動車)村山工場建設によって流路が変わり、現在は玉川上水から切り離されて多摩川へとそそいでいます。

南西(5)残堀の三本榎跡と旧河道【ざんぼりのさんぼんえのきあとときゅうかどう】

[画像]残堀三本榎跡(26.9KB)

残堀5-1

残堀の三本榎は、残堀川旧河道と福生街道(所沢街道、山口街道)を挟むように植えられていました。榎の幹廻り3メートル以上、高さ10メートルを超える巨木で、かつては街道をあるく旅人の憩いの場であったといいます。昭和40年代(1965〜1974)後半に1本を他所へ移植、残りの2本はそれぞれ平成9年(1997)と平成19年(2007)の台風により倒木しました。
残堀川旧河道は昭和34年(1959)からはじまった改修工事の際に埋め立てられ、現在では一部の道路筋にその名残りがみられます。

南西(6)残堀神明社【ざんぼりしんめいしゃ】

[画像]残堀神明社(64.8KB)

残堀5-28

残堀地区は近世に入って宿地区や峰地区などからの移住者によって作られた新田集落で、当初神社などがなかったため、人々の要望により三ツ木村にあった神明社を享保5年(1720)に移築して鎮守としました。明治40年(1907)に残堀自治会館の西へと移され、昭和41年(1966)11月に社殿が改築されました。境内には稲荷神社(通称:おたけ稲荷)が合祀されています。

南西(7)江戸街道【えどかいどう】

市内を東西に通る江戸街道は「原江戸街道」「新江戸街道」とも呼ばれ、江戸城改修の資材である青梅の石灰や奥多摩の木材を運ぶために作られたとされています。この街道は小川村(小平市)の新田開発にも関与し、また、青梅から御嶽の裾を通って甲州(山梨県)に抜ける重要な街道でもあり、御嶽山への代参道としても利用されていました。街道沿いには桜が植えられ、明治・大正時代に花見で賑わったことから「桜街道」とも呼ばれました。

南西(8)日産自動車村山工場跡地【にっさんじどうしゃむらやまこうじょうあとち】

[画像]日産自動車村山工場跡地(42.8KB)

榎1

昭和22年(1947)、軍用航空機製造を手掛けていた立川飛行機出身の技術者により東京電気自動車(プリンス自動車工業)が設立され、昭和34年(1959)に自動車増産体制を確立させるために新工場建設が計画されました。村山町は町有史以来の大事業として工場誘致運動を1年かけて行い、昭和37年(1962)にテストコースを備えた当時の自動車工場において日本最大規模を誇る村山工場が新設されました。昭和41年(1966)に日産自動車と合併し日産自動車プリンス事業部村山工場となり、平成13年(2001)に生産を終了するまでの40年間で約1,000万台の車両が生産されました。


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